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2006年度ゼミ論
                               
 
      黒人差別とアメリカ野球

                            渡辺 康志


 現在、多くの黒人選手がアメリカのメジャーリーグで活躍している。果たしてそこで黒人差別はなかったのだろうか。この点について興味を持ったので、以下で論じてみる。

 19世紀末、黒人選手は白人選手と混じって野球をし、活躍をしていた。1887年のシーズン、ホワイトストッキングスというチームを率いていたアンソン監督が、相手チームにいたジョージ・サベイというカナダ出身の黒人選手に対して、「ニガーをフィールドから追い出せ」と言った。このことがきっかけで、メジャーリーグの中における人種差別が表面化した。1888年以降、マイナーリーグでは黒人選手が白人選手と混じって野球をすることができなくなり、また、メジャーリーグでも球団経営者たちの中で「黒人選手は雇わない」という暗黙の了解事項があった。そして、黒人はメジャーリーグから締め出されたのである。しかし、黒人は野球をすることは止めず、1920年、「ニグロリーグ」というメジャーリーグとは違う自分たち自身のリーグを発足した。黒人選手はニグロリーグでニグロリーガーとして活躍し、ニグロリーグにはメジャーリーグでも活躍できるような有能な黒人選手が多かったが、メジャーリーグは白人のものであり、黒人は締め出されていたため、メジャーリーグでプレーをすることはできなかった。そして、メジャーリーグでプレーすることができないまま、ニグロリーグで選手生活を終える選手が多かった。
 
 そんな中、ブランチ・リッキーという当時のブルックリン・ドジャース(現在のロサンゼルス・ドジャース)の会長兼ゼネラルマネージャーは、人種平等の意識が高く、黒人選手がメジャーリーグで活躍する姿を見てみたいという願望を持っていた。彼は、1945年10月23日、ジャッキー・ロビンソンという黒人選手と、ニューヨークにあるリッキーの事務室で話し合う。そして、ブルックリン・ドジャースの傘下の3Aチーム、モントリオール・ロイヤルズでプレーする契約を結び、ジャッキー・ロビンソンは1946年のシーズンでデビューした。ロビンソンは、そのシーズンで良い成績をおさめ、翌年の1947年、モントリオール・ロイヤルズからブルックリン・ドジャースに昇格し、黒人初のメジャーリーガーとなった。このことをきっかけに、次々とメジャーリーグで野球をすることを夢見ていた黒人選手がメジャーリーグでプレーするようになり、「人種の壁」が破られた。

 しかし、黒人への差別は消滅したわけではない。黒人選手を故意に怪我させたり、観客から黒人選手に物が投げられたり、人種差別的な言葉を浴びせられたり、手紙などで脅迫されたりされていた。現在でも、投手や捕手、内野手は白人選手が多いが、外野手は黒人選手が多い。これは、白人選手が重要なポジションにつき、黒人選手は外に回されていることを意味していると考えられる。また、監督やコーチも、白人が多い。これらのことを考えると、アメリカ野球には、「人種の壁」が破られた当時は、外から見てもわかるような差別が黒人に対してあった。また、現在ではもう「人種の壁」が破られて何年もたち、テレビでメジャーリーグを見ても黒人選手が活躍している場面や、白人選手と黒人選手が雑談している場面などを見ることもあり、表向きとしては黒人への差別は消滅しているように見える。しかし、私たちが気づかないところで差別は消滅していないのでないかと思う。


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